日々の子育てと制作とアートと相談室の、ブログ
2022.4.13
全てを解ってしまっては詰まらない。謎が多い、発見が多い、未知なものがある。複雑で変容するもの。物の見方で同じようなものが全然違ったようにいくらでも解釈できるようなもの。それは視覚的なものでもコンセプチュアルなものでもイメージでも良い。一つの意味に限定されるようなものではなく。一つの意味が出てくると思いきや、別の意味が出てくるようなもの。概念と概念の「境界」の追求。そんな、「発見、未知、複雑、境界、変容」がある作品は、「原理的」「根本的」なものを内包するであろう。全ての事象はうつろい、限定されず、流動的である。例えそれが永久不変に見えても、変容する時間が若干かかっているというだけの話だ(それも人間が感じる「時間」でしかない)。作品のように「定着」されたものでも然りである。作品は自律して世界を創り、世界は変容していく。
ありふれた日常、ありきたりの日常、変わらない日常。それにもかかわらず、ちょっと見方を変えただけでも日常が日常ではなくなる。概念の檻と枠から抜け出たりずらしたりすることで、それは簡単に可視化される。いくらでも面白くなる。それは、自分自身の発見の過程である。「他人」や「世間」がどう言おうとそれは自分自身が発見した未知であり、謎であり、そして発見である。定着された一個の作品でも、いくらみても飽きなくてずっと観ていられるもの。それは作品が自律して世界ができて、変容し始めている証拠である。それは、例え自分自身だけであったとしても、それを感じたのであれば、それは割り切ることができない「世界」になっている。そして、その「世界」は、自分自身をきっかけに生まれながらも解き放たれ、「自律」し、世界へイメージを増殖させる旅に出る。
飽きない作品は、冷淡に「こういうものだ」と割り切ろうとしても割り切れない、ということだ。それは、他人がいかに割り切った解釈を施したとしても、自身が割り切れないのであれば、それは割り切れないのだ。それが割り切れなければ割り切れないほど、複雑な世界が発生していることになるのではないだろうか。
そして割り切れない世界と思うものの集積は、それはそれでまた複雑な世界になる。イメージは、いくらでも発生してくるのだ。そのいくらでも湧いてくるイメージの世界を媒体に、思考を沈潜させるのだ。沈潜すればするほど固定化し陳腐化された枠と概念の檻から放たれ、豊穣な海にたゆとうのだ。